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ベトナム語ローマ字表記成立に深く関わった日本人

Culture    • 2018年03月17日

作者:福田康男 (ハノイ大学日本語学部非常勤講師)/ 撮影:Tran Duc Anh Son

ほとんどの方がこのテーマを読んでもピンとこないと思うが、実はベトナム語ローマ字表記成立に日本及び日本人が大きく関わっている。

17世紀初頭、日本はアジア最大のキリスト教布教地域となっていたが、ヨーロッパ勢力拡大を恐れた徳川幕府は1614年にキリスト教を禁止したため、その翌年1615年からベトナム中部が日本の代わりにキリスト教の布教拠点として選ばれた(1)。

キリスト教布教に欠かせないのが言葉の理解。そのためイエズス会宣教師はベトナム語のローマ字表記を試みた。体系的なローマ字表記はイエズス会宣教師フランシスコ・ド・ピナ (1585-1625) によって始められた。ピナは1611年-17年までマカオで学び、ここで1608年に『日本語大文典』という文法書を完成させたジョアン・ロドリゲスから日本語ローマ字表記法を教わる(2)。ロドリゲスとは日本語達者のイエズス会士で、秀吉や家康の知遇も受けた(3)。ピナは1617年ベトナム中部ホイアンへ渡り、宣教師の中で最も早くベトナム語会話ができる人物となる。1621年にはベトナム語でカトリック教理を教えている(4)。そして1622年-23年頃までにベトナム語のローマ字表記法を考案し、その簡単な文法書を作成した(5)。つまりベトナム語ローマ字表記は日本語ローマ字表記を参考にして作成されたといえる。

こうしたベトナム語ローマ字表記成立の情報はほとんど知られていない。これらは最近、ベトナム人学者ドー・クワン・チンの最新研究[3]によって明らかにされたからだ。ただそこでもまだ一つ謎といえるのが、どうしてピナが来越6,7年という短期間に、ベトナム語会話をマスターし、ローマ字表記法を生み出せたかという点だ。それには日本人の協力・支援があったからと考えられる。そこで、以下では、その傍証を挙げながら、ベトナム語ローマ字表記成立に日本人が深く関わったことを確認してみたい。

1.ホイアンの日本人 

日本の朱印船
日本の朱印船
 「朱印船交趾渡航図巻」、九州国立博物館蔵

ベトナム中部に派遣されたイエズス会宣教師名簿と来訪年

フランセスコ・ブゾミ ナポリ 1615

ディオゴ・カルヴァリョ ポルトガル 1615

アントニオ・ディアス ポルトガル 1615

マニュエル・バレット ポルトガル 1616

フランシスコ・ド・ピナ ポルトガル 1617

クリストフォロ・ボリー イタリア 1618

アントニオ・フェルナンデス ポルトガル 1618

牧ミゲル 日本 1618

ペドロ・マルケス ポルトガル 1618

土持ジョセフ 日本・日向 1620

斉藤パウロ 日本・丹波 1620

マニュエル・フェルナンデス ポルトガル 1621

ドミンゴ・メンデス マカオ 1621

西ロマン 日本・有馬 1621

イエズス会宣教師が最初にやってきた1615年頃のホイアンにはすでに日本町が形成され、一種の日本人社会が存在した。日本町は阮氏広南国から特別に自治権を付与され、その取締(町長)に日本人がついた。一例として1618年から長崎出身で朱印船商人の船本顕定(通称弥七郎)がその任についている(6)。ヨーロッパ宣教師を含む外国人がホイアンに来れば、その日本町取締の管理下に置かれた(7)。

当時、相当数の日本人がホイアンに居住していた。17世紀初頭で約200-300名の日本人がいたとみられる(8)。また1619年の年だけで少なく見積もって日本から500人以上のキリシタンがやってきた(9)。

17世紀のホイアンにあった日本街

17世紀のホイアンにあった日本街

17世紀の港町ホイアンにあった日本街 
 「朱印船交趾渡航図巻」、九州国立博物館蔵

また注目すべきは、布教の初期段階でホイアンへ来たイエズス会宣教師はポルトガル人次いで日本人が多かったことである。表のとおり1615-1621年に14名が来たが、その内4名が牧ミゲル、土持ジョセフ、斉藤パウロ、西ロマンという日本出身者であった(10)。この表に掲載していないが、1615年のイエズス会最初の先遣隊にも司祭・修道士の下働きとして日本人2名(但し氏名不明)が同行している(11)。

日本町に入り込む形でやってきたヨーロッパ人宣教師達は最初全くベトナム語が出来なかった。けれどもホイアンには既に通訳者がいた。そのためヨーロッパ人宣教師たちは、この通訳者を介してベトナム人と意思疎通することができた。この通訳者とはホイアンに長期滞在していたベトナム語が話せた日本人である(12)。

2.ヨーロッパ人宣教師と日本語

ここで疑問となるのは、最初ヨーロッパ人宣教師がどのようにしてベトナム人と会話できたのか、という点である。これは、日本語のできる外国人宣教師や日本人宣教師が両者の間に立って会話を成立させていた、と考えられる。その例として、まず1615年派遣団3名の内にヨーロッパ人宣教師だが日本語を話せる宣教師がいたことが挙げられる。それがディエゴ・カルヴァリョである。彼は訪越前、1609年-14年までの6年間日本で布教活動していた(13)。加えて、表に示したように、1615年派遣団より3~6年遅れで来越した日本人宣教師たちがいる。彼らは、ラテン語ができたのでヨーロッパ人宣教師とは話せたし、ベトナム人とは、通訳者を介さなくとも、漢字の読み書きができるため、漢字の筆談でベトナム人と高度なやり取りが可能だった。日本語のできる外国人宣教師や日本人宣教師がヨーロッパ人宣教師とベトナム人の間に入り、会話をつないだ。

さて次に考えたいのは、どうしてポルトガル人のピナが数年間という短期間にベトナム語会話をマスターし、ベトナム人に説法できるまでになったのかという点だ。その最大の要因は、言うまでもなくピナの語学的才能にあるだろう。彼はおそらく音感が鋭かったはずである。それにしても現地語で説法可能なレベルまでになるには、日常語だけでなく、わかりにくいベトナムの宗教概念を正確に知る必要がある。例えば1651年刊行のアレクサンドロ・ド・ロード『ベトナム語・ポルトガル語・ラテン語辞典』に掲載されている「招魂 (Chiêu hồn)」「観音 (Quan âm)」「釈迦 (Thích ca)」「水府(Thủy Phủ)」のような語彙である。そうした語彙は漢字で表せる漢語であり、これらをヨーロッパ人宣教師達が正確に知るにはラテン語や彼らの母国語(ポルトガル語等)に置き換える必要がある。ピナも同様だったであろう。だが彼は当時の書き文字である漢字やチュノム(ベトナム固有語を表す擬似漢字)をよく知らなかった。これを1622-23年頃の書簡の中で次の通り述べている。「もし金があり会話や文字(漢字・チュノム)を教える先生が雇えれば、今頃は非常に上手になっていたに違いない。正にその理由で文字が読めないままでいる。本当に不甲斐ないことである。しかし話し言葉については自学自習してわかるようになった」(14)。こう述べたピナ。漢字を知らねば漢語の意味を正確に訳すのは難しい。

3.日本人宣教師の漢字とラテン語能力

ではピナはどうやって漢字が読めないという問題を解決したのか。やはり日本人宣教師が解決したのだろうと思われる。ベトナムに派遣された牧、斉藤、西は共にラテン語を6年以上学んでいる。1621年の彼らの上司の書簡によれば、とくに牧、斉藤の2名は共に優れた能力に恵まれ高いラテン語能力を持つと書かれている(15)。彼らは漢字にも熟知し漢文を正確にラテン語に置き換えられた。彼らのそうした能力が発揮されていたと理解できる箇所が1622年-23年のピナの書簡中にある。「(漢文の)様々な物語を蒐集し辞書や文法書の編纂のために語義や語法を確定しようとしているが、その物語を「人」に読んでもらって、(その語義を)ポルトガル語で書き、ポルトガルの同僚にもわかるようにしている」と書き記されている (16)。

日本の商人が阮王の王子に謁見して贈り物を献上した光景

日本の商人が阮王の王子に謁見して贈り物を献上した光景
 「朱印船交趾渡航図巻」、九州国立博物館蔵

この内容について2点解説を加えたい。まず一点目は「人」である。おそらくこの「人」とは二人いる。一人がベトナム人、もう一人が日本人である。ベトナム人の方は漢字を知り、正確な発音を教えた。もう一人の日本人はイエズス会宣教師。なぜなら漢文も読めてラテン語もできる人は当時のホイアンに日本人宣教師ぐらいしかいないからだ。2点目は「その物語を「人」に読んでもらって、(その語義を)ポルトガル語で書き」とある部分について。これは簡潔に表現されているが、いくつかの行為描写を意図的に省略したのではないかと思われる。実際は次の過程を経たのではないか。まず、ピナは、ベトナム人に頼み、漢字を読んでもらい、それを発音してもらってローマ字で表記する。次に、同じ漢字を日本人宣教師に読んでもらい語義を解説してもらう。そのさい日本人宣教師はポルトガル語までは出来ないので一旦ラテン語へ訳す。ピナはそれを聞いて(あるいは読んで)意味を理解し、さらに彼の頭でポルトガル語へ置き換えて叙述する。このようにしてヨーロッパ人宣教師たちはベトナム語が正確に理解できるようになっていった。ピナのベトナム語マスターの影には漢字を知る日本人がいたと考えないと説明がつかない。

4. 漢字を基にしたベトナム語ローマ字表記 

さらにヨーロッパ人宣教師がどうやってベトナム語ローマ字表記を確定できたのかも考えてみたい。なぜこれを問題にするのか。これはヨーロッパ人宣教師がベトナム語を最初聞いた時、2音節からなる名詞の区切れ目がどこにあるのかわからなかったと考えられるからだ。たとえば、1621年イエズス会宣教師ジョエル・ルイの書いたベトナム語名詞では、安南 (An nam) は Annam, 順化 (Thuận Hóa/xứ Huế) はSinoa, 進士 (ông Nghè) はUngueと、分ち書きされずに記述されている(17)。また同宣教師クリストフォロ・ボリーも1621年に書いたと見られる記述に、中部の街クイニョン (Qui Nhơn)をQuigninと綴っている(18)。ピナも同様に最初の頃は単語と単語の切れ目がわからなかった。しかしその後、彼は単語と単語の切れ目、あるいは音節と音節の切れ目、言い換えれば字と字の切れ目がわかるようになった。それがなぜわかるかといえば、2音節名詞の間を区切る表記法がピナの弟子の書簡に初めて現れるからだ。その弟子とはアントニオ・ド・フォンテ。彼は1626年1月に、地名のベンダー (Bến Đá) をBến Đá、ジンチャム(Dinh Chàm)をDinh Chamと表記している。ベンダーのほうは分ち書きも声調記号も現在の正書法とまったく一緒だ。彼は1924年12月に初めてベトナム中部に来て、上述のロードと一緒にピナからベトナム語を学ぶ(19)。その手紙は1625年12月にピナがダナン沖で溺死した直後に書かれ、そのつづり方はピナから学んだと考えられる。

では、ピナはどうして名詞内の区切り目がわかったのか。それは漢字(チュノム)を基にしたからだろう。漢字を基にすることでその字音と語義がわかる。またそこから語の構成に戻れば、語内部の音節間の区切り方も明確になる。べトナム語語彙を音節ごとの最小単位に分けられるようになったのは、漢字に基づいたその字音と語義の確定作業のおかげである。特にその語義確定には漢字をよく知る日本人が参加していたはずだ。語内部の区分けができれば、あとは、単語(音節)毎に、日本語ローマ表記法や中国語ローマ字表記法と、中国語式音韻の知識に基づき、母音や子音、声調を当てはめれば、ベトナム語のローマ字表記は完成する。当時のイエズス会宣教師の間では日本語や中国語のローマ字表記法はすでに見慣れないものではなかった (20)。

以上の点を併せて考えるなら、ベトナム語のローマ字表記成立過程には、日本人が深く関わっていたことは否定しがたい事実だといえる。

注釈

1; 4; 5; 7; 10; 13; 14; 16 Đỗ Quang Chính, Dòng tên trong xã hội Đại Việt 1615-1773, Hà Nội: Tôn giáo, 2008, 17-19; 38; 46; 23; 555; 46; 20; 45-46。

2 Roland Jacques, Portuguese Pioneers of Vietnamese Linguistics, Orchid Press, 2006, 61-64。

3 ロドリゲス『日本語小文典(上)』池上峯夫訳,岩波文庫,1993年, 259。

6; 8 Nguyễn Văn Kim, Quan hệ của Nhật Bản với Đông Nam Á thế kỷ XV-XVII, Hà Nội: ĐHQGHN, 2003,144;143。

9; 11五野井隆史「ヴェトナムとキリスト教と日本―16・17世紀コーチシナにおけるキリスト教宣教を中心にして―」青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 (16) 44-55, 2008-2012, 51; 48。

12 Đỗ Quang Chính, Lịch sử chữ Quốc ngữ 1620-1659, Hà Nội: Tôn giáo, 2008, 25; Đỗ Quang Chính, Dòng tên trong xã hội Đại Việt 1615-1773, Hà Nội: Tôn giáo, 2008; 34-35。

15高瀬弘一郎『キリシタン時代の文化と諸相』八木書店, 2001年, 484-489。

17; 18; 19 Đỗ Quang Chính, Lịch sử chữ quốc ngữ 1620-1659, Hà Nội: Tôn giáo, 2008; 29-30; 38; 44-47。

20 Đoàn Thiện Thuật, Chữ quốc ngữ thế kỷ XVIII, Hà Nội: Giáo dục, 2008, 19。

参考文献

1. Đoàn Thiện Thuật, Chữ quốc ngữ thế kỷ XVIII, Hà Nội: Giáo dục, 2008.

2. Đỗ Quang Chính, Lịch sử chữ quốc ngữ 1620-1659, Hà Nội: Tôn giáo, 2008.

3. Đỗ Quang Chính, Dòng tên trong xã hội Đại Việt 1615-1773, Hà Nội: Tôn giáo, 2008.

4. Nguyễn Văn Kim, Quan hệ của Nhật Bản với Đông Nam Á thế kỷ XV-XVII, Hà Nội: ĐHQGHN, 2003.

5. Roland Jacques, Portuguese Pioneers of Vietnamese Linguistics, Orchid Press, 2006.

6. 五野井隆史「ヴェトナムとキリスト教と日本―16・17世紀コーチシナにおけるキリスト教宣教を中心にして―」青山学院女子短期大学総合文化研究所年報(16)44-55, 2008-12.

7. 高瀬弘一郎『キリシタン時代の文化と諸相』八木書店, 2001年。

8.ロドリゲス『日本語小文典(上)』池上峯夫訳,岩波文庫, 1993年。

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