忘れられない思い出となったパラリンピックボランティア
Tin 60s
9月5日夜、東京の国立競技場で行われた閉会式で幕を閉じた東京パラリンピック2020は新型コロナウイルスの影響で多くの困難が生じたが無事に終わった。
閉会式で東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長はアスリートたちの努力を称えたが、そのアスリートの素晴らしい活躍の裏には、ボランティアを含むパラリンピックに従事するスタッフの存在なくして成し遂げられなかっただろう。
そのボランティアの一人として活動したホーチミン市出身の大学生レー・チュン・ニャットさん(Le Trung Nhat)はパラリンピックでのボランティア活動を「人生で最も忘れがたい経験の一つ」と語っている。
2年前、2020年オリンピック・パラリンピック組織委員会からのボランティア募集通知を目にしたニャットさんはすぐに応募をした。旅行代理店を通しての厳しい面接審査を経て、この重要なスポーツイベントを支える一人となった。
採用の知らせを受けたとき、このような国際的なイベントに参加するのは初めてのことだったのでとても誇らしく嬉しかったという。
史上最多の162の国・地域から4,400名以上のアスリートが参加する今大会は、非常に多くの業務があり、また各アスリートの特徴に合わせたサポートを必要とした。
ボランティアは1日8時間の3シフトで業務にあたった。アスリートやチームメンバーの体温を測ったり、消毒を促したり、選手村での代表団の移動を誘導したりとやるべきことは目まぐるしかった。
さらに日本語と英語が堪能なニャットさんは外国人選手への道案内や食料の買い出し、パンデミック対策の安全規則の説明など、言語面でのサポートも担当していた。
しかしこの活動においての最大の課題は、パンデミックのリスクから自分自身の安全を確保することだったいう。
実際、国立競技場のパラリンピックの聖火が消えたとき、ニャットさんは自分の仕事が終わりに近づいていることを実感し、何事もなく任務を終えることができたことに大きな喜びを感じたという。
困難を克服し熱意をもってこのボランティアを成し遂げたニャットさんの活動は、ベトナムの若者が今日の厳しい国際環境の中で、どんな仕事でもうまくやれる十分な能力を持っていることを周知させることなった。
パラリンピック名称の由来:
当初、パラリンピックはオリンピック開催年に開催国で行われる「国際ストーク・マンデビル大会(下半身不随者のスポーツ大会)」を「Paraplegia(対まひ者)」の「Olympic(オリンピック)」=「Paralympic(パラリンピック)」という発想から、東京大会の際に日本で名付けられた愛称であった。
しかし、この大会への出場資格は「まひ」だけでなく、視覚、知的などの障がいを持つアスリートに広がり、従来の意味合いとはそぐわなくなったため、ギリシャ語の「Para(沿う、平行)」+「Olympic(オリンピック)」=「パラリンピック(Paralympic)」とした。1985年、IOCは国際調整委員会(ICC)がオリンピック年に開催するこのスポーツ大会を「パラリンピック」と名乗ることに同意し、もう一つのオリンピックとして解釈されるようになった。
※これらのニュースは各ソースを参考に記事を編集・制作しています。