大学卒業後、数年がたってから、私たちは高宮達治先生と再会できました。日本で放射線治療を受けられ、白髪交じりになって、声と体が弱くなられた高宮先生。人文社会大学の日本学科を支えられた8年という月日は決して長くはありませんが、先生にとってかけがえのない日々となりました。
先生の“宝物”
高宮達治先生は、1953年生まれ、同志社大学法学部を卒業。若き夢と情熱にあふれた先生は、1978年にヒットユニオン株式会社に就職し、購買や販売、経営などの仕事に就かれました。先生のキャリアの頂点は、スポーツ用品の製造・販売を行うプーマジャパン株式会社の役員としてマーケティングを担当されていた頃です。三浦知良、中山雅史をはじめとするサッカーのトップ選手には、プーマジャパンの愛用者が多く、三浦選手も長年の「パラメヒコ」ユーザーであるそうです。
その後、先生がそうした誇りを持っていられたお仕事を引退し、日本から近くて一年中暖かい国で過ごしたいと考えたことから、ベトナムは最適な選択肢の一つとなりました。そうした折に、人文社会大学日本学科の教師募集のお知らせを偶然見つけ、ベトナム国家大学ホーチミン市校の教師としてベトナムへ移住されました。教師は最も尊い仕事とされていますが、先生にとっての新しい挑戦となりました。
教師として熱心に貢献
お歳を取られてから教師の仕事を始められたにもかかわらず、私が今まで習った中で最も熱心な教師のひとりであった高宮先生。
ホーチミン市に来たばかりの頃、まだ生活や交通ルールにも慣れていなかったのに、Thu Duc区の授業を担当することになり、先生はご自分ひとりでバスの使い方、学校のこと、ベトナム人学生の性格について調べられました。授業では、教師として与えられた役割を果たされながら、授業後には楽しく生徒にとって効果のある授業となるための、先生として技術を学ばれました。先生の授業では、日本語だけではなくて、挨拶のマナーや名刺の渡し方、電話応対のビジネスマナーなど、日本の企業で活用できるスキルを身につけることができました。卒業後に就職して、ビジネスマナーのトラブルにあうたびに、高宮先生から教わったことを思い出し感謝しております。
高宮先生は日本語クラブ「東日」のサポートもしてくださいました。メンバーたちがアドバイスを求めるときや日本語を修正して欲しいときには、細かいところまで手伝ってくださいました。夜中の2、3時まで日本語を修正してくださったこともあり、クラブが終わっても自らお残りいただき、振り返りミーティングをしていただいたことも何回もあります。東日クラブに通っていた学生なら、いつも笑顔で、学生たちとゲームに参加していた年配の日本人先生が記憶にあるはずです。勇気を出して話しかけると、先生はかすれがちの温かい関西弁で返事してくださいました。元気なときも、病気になってからも、いつもそうでしていただけます。
Thanh Trucさん(25歳・日本在住)は、「3年生のとき先生が病気にかかられ、すぐに帰国しないといけないという話をお聞きし、みんなで寂しくなりました。2年生の後輩たちが期末試験を受験できるように、先生は話すことも困難な自分の状態をかえりみずに、試験の直前、奥さんへ、試験問題を送るように頼まれたそうです。病院で目が覚め、学生たちからお見舞いのメッセージをもらったときには、自分が早く回復できたのは学生たちのおかげだと、曇りがちの声で話されました」と語りました。
私たちにそれほどの思いを寄せてくれる高宮先生はまるで仏さまのようです。先生を尊敬すればするほど、先生のように生きたいと思うはずです。うさぎでも亀でも、自分なりに輝く。些細なことでも軽視せずに、自分の仕事を150%まで果たす。そうすることで、おのずと他人から尊敬されるようになれるはずです。
高宮達治先生:「どこからかスーパーマンが現れて手伝ってくれることは望まずに、教師一人一人は、自分がスーパーマンになったつもりで、最新の知識を身につけながら、常に教える内容と方法を改善すべきです。学生たちも、自分の強みを生かして、はっきりとゴールを決めて、誰のためでもなく自分のために勉強するという気持ちを大切にしてほしいです。上へ上へと成功したいと思うのなら、さまざまな仕事を経験することをお勧めます。」
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