役目を終えた工場が、私たちに伝えたいこと
明治時代以降の日本の近代化を支えた産業のひとつに「絹」がある。現在の日本産の絹の生産量は極めて少なく、日本国内で流通しているのは99%以上が外国産だ。しかし、19世紀後半から20世紀半ばにかけて、絹産業が盛んになり、日本の輸出品のトップを誇っていた時代があった。その時代を語る上で欠かせないのが、2014年に世界文化遺産に登録された、富岡製糸場と3カ所の絹産業遺産群である。知名度は決して高くない…だが今密かに注目を集めている。
富岡製糸場とは、1872年に日本政府によって建てられ、当時の最先端の製糸技術を誇った製糸工場だ。群馬県富岡市、約5.5haの広大な に、各施設が当時の面影そのままに残されている。西洋の雰囲気が漂うのは、工場の建設、技術指導ともに、フランス人の指導者・Paul Brunat氏に託したためだ。ここでは、至るところに和洋の技術の融合を見ることができる。
敷地内にある長さ100mを超すレンガ造りの建物は、2棟が繭倉庫だ。1年分の繭をストックするというから、その大きさは相当なもの。木材を骨組みにしレンガを積み上げる方法は、当時の日本では珍しいものだった。建物に窓がたくさんあるのは、繭にカビが生えないよう風通しをよくするためだ。もう1棟が、根幹部である繰糸場。ずらりと並んだ自動繰糸機は、今にも動き出しそうだ。保存されているのは、1970年頃に導入されたものだという。こんなに機械が多いにもかかわらず開放感があるのは、柱を極力使わない「トラス構造」という方式で建てたおかげだ。壁一面のガラス窓からは、昼間は明るい光が差し込む。電気がひかれていなかった建設当時、この抜群の採光が工女たちの仕事を助けていた。
世界遺産に登録されたその他の3カ所は、近代養蚕農家の原型を築いた「田島弥平旧宅」、養蚕教育機関である「高山社跡」、国内最大級であった蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴」。これら4施設の連携が、日本の絹産業発展をがっちりと支えていた。
一時代を築いた富岡製糸工場も、1987年3月に操業を停止、115年の歴史に幕を閉じた。海外への技術の流出や、絹需要の減少…さまざまな要因により、日本の絹産業は今も衰退し続けている。140年前から変わらぬ姿で佇み続けるその遺産は、日本のひとつの産業の栄枯盛衰を、じっと見守ってきたのだろう。
「昭和14年頃繰糸場内部」全国から集められた「エリート」と呼ばれる数百人の女性たちが働いていた
群馬県藤岡市にある、高山社跡。「清温育」という養蚕法の研究と指導を行っていた高山長五郎(ChogoroTakayama)の生家であり、指導の場でもあった
TOMIOKA SILK COLLECTION
今では貴重となった日本産シルクの生産を行う、数少ない産地である群馬県富岡市。富岡製糸場が稼働していた時代から続く製糸技術を絶やさぬよう、上質な繭、絹製品作りが続けられている。純日本産のシルクは少し値が張るが、品質はお墨付き。一度は手にしてみたい。